-中学卒業後、芦辺町の床屋さんに就職。働きながら2年間通信教育の理美容学校に通い、理容師免許を取得。お店の正規名は「ヘアーサロン次郎」だが、いざ仕事を始めると、ヘアーサロンよりも近所の人が言う「床屋のじろう」の方がしっくり来て、お店のドアには「とこや じろう」と表示。ゼンリンマップでも「とこや じろう」で掲載されている。 壱岐市石田町出身。-
Q1.なぜ壱岐でその仕事(活動・企画・イベントなど)をしようと思いましたか?
理容師になったきっかけは学校の先生です。私は次郎という名前の通り、次男で跡取りでもなかったんですが、兄が福岡で大工見習いを始めて、私が親父の跡取りとして、半農半漁で漁師をやらんか?という話になったんです。ただ船に弱くて、漁に行く度に酔ってしまって。
それで、おそらく理容師の弟子探しを頼まれていた学年主任の先生から、私が決まっちょらんけん、どう?と言うてこらしたとです。それが最初です。
最初に声を掛けられた時は、床屋のとの字も考えちょらん!って言いました。でも卒業式は近づくし、友達は就職先も決まるし、他にも就職先の候補はあって考えてみたけどやっぱりだめだろう、となって、先生に確認したら、まだ決まらんって言われたけん、自分がなろうかなと思いました。
理容学校に行かないかんとか、国家試験受けないと免許がもらえんとか、そういうことは全く考えてなかったので、それで「えー!また勉強せないかんと!そんなはずじゃなかったのに!」と思いました。中学を出て働きだしたら、鉛筆を持って勉強することはないだろうと思っていたので、それはショックでした。笑
就職した時は、僕が15歳、お師匠さんは27歳か28歳でした。師匠曰く2・3年経たないと使い物にならない、でも2・3年かけて教えて、別の所に行かれたら意味がない。だから5年は最低働いてほしいということで最初は5年契約でした。20歳になって、理容学校の知人のツテで福岡に行こうとしていたら、お師匠さんの家の都合で、人手がいるからもう少し勤めてくれんか?ということになり、そのままズルズルと壱岐を出んごとなりました。
いくつか年を取って、都会に出て修行したら、年下から怒られることや辛いことも多いので、辞めた方が良いと言われました。それを僕に言ってくれた人は、師匠の友達だったから、罠にかけられたのかもしれないですね。(笑)その後26歳で独立して40年になります。
Q2.壱岐が変わったなと思いますか。またそれはどんなところですか?
人間が少なくなったところが一番変わりました。僕たちが学校出た時には人口が5万人くらい居て、郷ノ浦の光武病院の周りは、昼も夜も人間がたくさんいました。今は誰もおらんごとなってしまった。なんかなし最高5万人いたので、その時から見ると、今は少なくなりました。
Q3.壱岐にこれがあったら(出来たら)良いなと思うものはなんですか?
全くないです。今でも良すぎちょるとやないかねっち思います。量販店もたくさんできて、コンビニもできて、あんな何軒もいるとかね?って思います。
なんかこう・・・、あるのに慣れると人口が減った時に儲からんごとなって、引き揚げていくでしょう?その後、壱岐の島に残った僕たちの喪失感というか、なんかそういうことを考えたら、来ないでも良いって思います。
看板犬のこじろうさん。
Q4.あなたにとっての壱岐を一言で表すならなんですか?
「来てみたら広いねって思うかもしれませんね」
理美容学校時代の同級生に壱岐のことを聞かれ、「壱岐ではソフトボールでホームラン打ったらアウトばい!」「寝返り打ったら、片手は海に落ち込む!」っち、そういう話ばかりしました。(笑)
なんの知識もなく来たら、壱岐と対馬が一緒だと思って、狭いって思ってきたけど、来てみたら、みなさん壱岐は広いねってなると思う。
あとは「壱岐の人達は、あんまり上手に話さんのが特徴と思います。」
時間をかけたら壱岐は良い人が多いねってなると思います。島国だから、最初は外からの人を受けつけないように感じます。だから自分は意識して、ワーワーいうように努めています。本当は控えめで無口なんだけどね。(笑)
Photo by 髙田望
【壱州人辞典とは】
地元出身者・移住者・年齢・性別問わず、“壱岐に住む(暮らしている)人”を紹介していく企画です。
壱岐島の良さを伝えるには、その地に暮らす人にフォーカスを当てることが大切だと考え、魅力的だと感じる人を紹介していくことで「この人に会ってみたい。」「この人に 話を聞きたい。」という興味を持ってもらい、人が人を呼ぶようなサイクルを作りたいと思っています。
人から人へと辿っていくことで、私たちが知らない、壱岐の人もあまり知らない面白い人に出会いました。
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壱州人辞典 | いきしまぐらし 【壱岐市公式】 -Page 5 (ikishimagurashi.jp)