-長崎県小長井町(合併して現在は諫早市)出身・芦辺町在住。高校卒業後、長崎県庁の臨時職員を経て、長崎県土地改良事業団体連合会で農業土木技師として勤務。昭和42年、28歳の頃に壱岐へ転勤してきて妻と出会い、昭和43年に結婚。3年経ったら壱岐から転勤で出て行かなければならないところ、ちょうど石田町役場の職員に空きが出て転職。定年までの33年間勤めあげた。定年後は、嘱託職員として3年間、原の辻遺跡調査事務所で勤務。神社の総代のほか、芦辺土地改良区監査役・お寺の総代・地域の老人会長としても尽力。愛猫は三毛猫のみーちゃん。-
Q1.驚いた壱岐の習慣(行事・ルール)はなんですか?
「御講」ですね。初祈祷、植え付け祈祷、彼岸祈祷、盆祈祷とか、とにかく祈祷が多くて驚きました。私は壱岐に親戚も無かったので、大変でした。
御講は1軒1軒、持ち回りで行っています。料理やお参りするための道具も他の家がしているようにしないといけないので、料理に使っている材料や何品あったか食べる時に覚えて帰って、家内に伝えていました。そうしてメモしたノートが3冊分にもなりました。
5軒講、8軒講、11軒講といって、御講の軒数も違うんです。5軒講は小さい単位の御講です。8軒講では川祭りや百手講などがあります。11軒講は講中の愁い事・祝い事の行事に携わります。
5軒講の時は1軒にみんなで集まって、“おごくう“(※1)と”御神酒“と”御なます“を持ってお参りに行きます。お参りから帰ってきたら、夕ご飯の御馳走を食べます。メニューも決まっていて、おなます・お煮しめ・お刺身・ご飯と季節によってお雑煮を作って、お酒とともにまかないしていました。お酒の量も決まっています。毎月のようにそれらがありました。今はそれぞれの御講を合併して1月11日に百手講として寄せて行っています。
去年はどうだったかな?とノートを見て取り組んでいました。地域の人間になるためには“慣れないかん“と思って、地域に溶け込もうと頑張りました。ノートを見ずに準備できるほど慣れてしまった頃には、小さな行事は無くなってしまいましたね。祈祷も今はできる人がいなくなっているんです。
(※1)おごくうとは、ご飯の事。
Q2.壱岐に来てから、以前住んでいた場所で暮らしていた時との(気持ち・環境など)の変化はありましたか。
学校時代は実習で五島や生月島など長崎県の島々に行きました。その中で壱岐は1番住みよい島です。平地農村地帯で農業をするには1番ですね。技術者としても、いろんな道路を作ったり圃場(※2)整備をしたり、やりがいのある島です。
平成元年から13年まで芦辺町・石田町・郷ノ浦町の3町にまたがった深江田原を中心とする圃場整備が生涯で1番印象に残ります。それで今も荒地にもならずに、立派な耕作もされています。
一支国博物館と長崎県埋蔵文化財センターも、圃場整備ができたから、発掘調査も進んだと思っています。
(※2)圃場(田んぼや畑のこと)
Q3.壱岐に来て不便さを感じることはありますか
本土と自由に行き来できないところですかね?でもそれは欠点でもあり長所であると思っています。
在職中に村づくり事業の一環として蛍の里づくりを実施しましたが、その時に東京から指導者が来られて、「島というハンディをうまく利用して観光振興にも繋げていくようにしたら良い」ということを教えてもらいました。
離島だからすぐ帰れないので、1泊・2泊としていけば旅館も潤うと思っています。長く滞在してもらうことが利点に繋がります。ハンディを良い方に利用するということを勧めていった方が良いと思います。
Q5.あなたにとっての壱岐を一言で表すならなんですか?
「自然界の島」
山、川、海があり、昔より自給自足ができるような島だと言われ、第一次産業は農業と漁業です。公害を出すような企業もなく神社や仏閣が多いです。
それに一支国博物館や長崎県埋蔵文化センターを有する歴史の中心であるので「自然界の島」だと思っています。
Photo by 髙田望
【壱州人辞典とは】
地元出身者・移住者・年齢・性別問わず、“壱岐に住む(暮らしている)人”を紹介していく企画です。
壱岐島の良さを伝えるには、その地に暮らす人にフォーカスを当てることが大切だと考え、魅力的だと感じる人を紹介していくことで「この人に会ってみたい。」「この人に 話を聞きたい。」という興味を持ってもらい、人が人を呼ぶようなサイクルを作りたいと思っています。
人から人へと辿っていくことで、私たちが知らない、壱岐の人もあまり知らない面白い人に出会いました。
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壱州人辞典 | いきしまぐらし 【壱岐市公式】 -Page 5 (ikishimagurashi.jp)